月曜日

いかん。優柔不断状態になってしまっている。定常分布の表現をこのまま地道な計算でまとめるのか、もうすこし考えるのか決断がうまくできていない。これは真剣味が足らないせいだろう。昨年10月の研究する頭をどこかにおいてきてから今年4月の頭痛まで続いた最悪の状態を脱出できて少しほっとしているのかもしれない。しゃんとせないかん。

"say something": 研究の立ち上がりのとき、漠然とすらアイデアがない。そういうときに「何か喋る」ことで活路が開かれることはよくある。ただし、個性に大きく依存する。回転がはやく、色々なアイデアを素直に消化できる人は、この力を磨きたい。もちろん、それが今の段階で得意な人は何でもなくて、楽しいことである。逆に、じっくり考えないと落ち着かなかったり、素直に適応するのが苦手な人は、無理に"say something" をしようとするとおかしくなるので、そんなことをせずに、自分なりの考えをゆっくり消化してから他人と喋ればいい。難しいのは、「その潜在能力がある」と僕が判断し、かつ、「現時点で不得手だ」と本人が(僕も)思っている場合である。

もし、僕の判断があっていれば、潜在能力を開花させることができるかもしれないが、判断が間違っていれば、おかしなことになってしまう。つまり、ベストとワーストの幅が大きく、期待値は確率の割り振りに依存する。最近の僕は、はずしている可能性はつねにある、という当たり前のリスクは承知の上で、判断停止をしないことにしている。他人の長所、短所をみることは僕が得意なはずもないが、逃げていては何にもならない、と僕が自分に対して思ったからである。

で、今日は、"say something" が(現時点で)苦手な人に対して、"say something" の課題を出していた。計算してきたとか、具体的なアイデアを検討してきた、というのでなく、なんとなくどっちに考えていけばいいかを喋ってもらう。「1分でいいからもたせろ。見当違いでも、何かの種があれば、僕が膨らませるので、あとは僕が喋ることに素直に反応すればいい。」僕自身は、特別の仕込みをせずに、この場にのぞんでいる。(やらせはしない。) ふー。今日のところは、僕の判断があっている気がする。もちろん、もし潜在能力があるとしても、苦手意識をとれるようになるかどうかがはっきりするまで時間はかかるし、僕の判断が間違っている可能性もある。