月曜日

「概ね妥当な描像を抑えたあらっぽい議論」と「概ね妥当な枠を踏まえたあらっぽい計算」は、それぞれ大事である。とくに「あらっぽい」ままに、正しいことをするのは大変難しい。前者でも後者でもうまくできれば研究力が相当にあるが、その両方を持てればこれは強烈になる。もちろん、研究初期で見えてないときは、どちらもできないことが多いので、できないときはできないなりに、少しづづできるようにしたい。

院生にときどき(えらそうに)いうのは、「その二つを混ぜるな。」である。見えないときに、あらっぽい計算でみようとしているのか、あらっぽい物理的議論をしているのか、それぞれが不安なときに、ふたつの間をスイッチすると、そこにおかしなことが紛れ込む可能性が高いからである。例えば、物理的議論では「まぁ、いい」のに、それが困ったときに、ひょいっと「あらっぽい計算」にいくと、バランスを逸してしまう。逆もある。計算でみているときに、ひょいっと物理的議論で済ますとおかしくなる。俗にいう、ごまかしが入る。もとよりあらっぽい議論の範疇でも、由緒正しいあらっぽさと見るに堪えないごまかしとは違うのである。

まさに、それを自分でもやっていた。ある種の活性化過程のようなことを理解したくてあれこれしていたのだけれど、いかんせん、統計力学のそういう話は相当に素人運転中である。今日、田崎さんに低温展開の正しい枠組みをステップバイステップで(計算のプロセスでなく、考え方のプロセス)を教えてもらった。基本的なことだし、しかるべき本にあるのだろうか。(う?何みればいいんだ?)正しい計算の組み方を分かると、僕がやっていたあれこれの中にはは、途中で「ごまかしスイッチ」が入っていたことを完全に理解した。

僕の場合、描像にもとづいてこんなもので、、のあたりまでは概ね正しいことをいっているのだけれど、それをさらに一歩すすめるために、「こう考えて。。」の部分にあらっぽい描像からあらっぽい計算にスイッチした。もし、あらっぽい計算をするなら、最初からあらっぽい計算のスタンスに立つべきで、途中でスイッチするから、何というか、都合のいい部分の恣意的接合みたいなことをやってしまう。

というわけで、イメージもさらに鮮明になった。理解まであと一歩だけれど、核心を理解していないことをさらにちゃんと理解した。