月曜日

小さい問題が多数発生。ひとつでも解決して一日をおわりたいが...

あれ?UT physics の宣伝に近刊予定になっている。「確実に落としそうなのですが、、」と担当の人にはいっているけれど、、。そうか、blog に毎日書く、というのはどうだろう。

........というので20分だけ書いてみた。あほか。やはり200分くらいないとまとまった原稿はつくれない。やはり、毎日の隙間に書くのは無理だ。一応書いたので、消さずにおいておこう。

はじめに

何気ない日常のざわめきが突然意味をもってみえることがある。このような出来事を一般的に話せるほどの教養を僕はもっていない。しかし、対象を科学に限定すれば、僕にも多少喋れることがある。

「カオス」をはじめて理解した、と自分で感じたとき、世界の見え方が明らかにかわった。不規則にみえる信号の背後に決定論的な法則が潜む場合があるなんて、考えてもみなかった。そして、「カオス」はその決定論的法則に従う証拠を僕たちは知ることができるのである。心底驚いた。

それから数日、「カオス病」にかかってしまった。あれもカオスか、これもカオスか、、今まで単なる信号だったものの背後に無意識に「カオス」を探そうとしていた。僕はその病から目覚めたが、学会レベルでは、強烈なカオス病が蔓延し、あれもカオス、これもカオスの論文が大量生産された。ここで蔓延してきた雰囲気は、僕の最初の喜びとは相容れないものでたいして面白くなかったので、その雰囲気に交わりたいとは思わなかった。しかし、カオスに出会った感動は未だに残っている。

「ゆらぎ」にふれるとき、僕らは最初そこに意味をみない。ゆらゆらしている何かでしかない。しかし、科学の進展によって、単なるゆらゆらではない何かをその背後にみたとき、突然、強い色でゆらゆらがみえてくる。身の回りに普通にあって、まったき気がつかないまますごしていたのが、ある日突然、別の風景にかわる。

僕が、非平衡理論を研究している大きな動機のひとつは、この風景の変化を自分の手でつくりあげたいからである。残念ながら、僕がなしとげたことはまだ小さいものでしかない。しかし、過去の巨人たちが成し遂げたことの追体験によって、自分なりに何度も感動してきた。この本では、そのような「はっとする瞬間」のいくつかを紹介したい。僕が知る限り、そのような視点で「ゆらぎ」について紹介している本がないからである。それと同時に、僕たち研究者が、自分たちの手でそれを見出そうとしている現時点での悪戦苦闘の様をも伝えたい。既にできあがった素晴らしいものを味わう興奮とつくりあげていく途中の興奮は相補的だからである。

前半部分は、教科書にも書かれていることをとりあげる。たとえば、アインシュタインであり、オンサーガであり、ローレンツである。彼らはそれぞれ、ゆらゆらの背後に誰もみえなかったものをみた。その「おそろしいまでの飛躍」がわかるように紹介したい。..... (つづく)