月曜日

徳島文理高校:僕は4期生だが、寮1期生・特待生1期生で、(徳島県初の)私立進学校の黎明期を過ごした。その全期同窓会にでかけていった。第一部の最後に講演をした。口だけの講演は初めてなので、よい経験になった。(時間配分を少しミスったが、自分の力量の限界近くだったと思う。)第2部のパーティーには、約800人が参加していたが、僕らの世代の人はそれほどおおくなく少しさびしかった。(それでも約20年ぶりにあう人たちが結構いたのでなつかしかった。)佐野研で学位をとった和田さんは、17?期生あたりだが、今、ドイツなので参加できない。(Wada-Sasa 論文は、研究室の枠を超えて書かれたが、著者は高校の先輩・後輩関係にあった。)

28期までくると、黎明期の香りは消える。特待生制度はもはやないし、寮も廃寮になった。生徒会やクラブがいっさいないままスタートした学校の制度も、今は、普通の学校と同じようになっているらしい。僕が中学生のとき、今の文理高校があったなら、進学する可能性はゼロだっただろう。全く偶然に、黎明期の高校に関われたのは、僕にとって非常に幸運だったと思う。

ちなみに、大学院時代も蔵本研の黎明期に関われた。富田研からほぼ連続的に継承されたので、境界は難しいが、M1から蔵本さんの顔をみる時点から数えると2期生になる。(その数え方で、学位所得1期生。)学問的には、70年代の転回点が成熟にむかっていた頃で、その次に関する模索をしていた。蔵本さんも、明確にその次を意識して模索していた、と記憶している。僕自身も、情報・計算関連、レオロジー関連、統計関連、生物関連など、自分の方向に悩んでいた。そうこうしているときに、世界的には、70年代転回点の成熟化の方向がどんどん大きくなり、僕は半端にそこに関わっていくことになった。僕は、その後、成熟化路線は意図的に捨てる。(解決できれば面白い問題はたくさん残っており、皆が捨てる必要はない。個人の趣味の問題である。)蔵本さんは、その後、意図的にひらきなおったように思えた。正直にいって、そのひらきなおりは、今の僕とは相容れない研究者像ではあるが、僕がその年齢になったときにどうなっているのかわからない。。

今、非平衡基礎、レオロジー基礎、生物基礎 について、黎明期とよべる時代を自分なりにつくれればいいと思っている。しかし、大概の試みがうまくいかないのも承知している。自分の意欲が、自然に高いレベルのままどれだけ持続するかが鍵だろうな。。なぁなぁになってきたときの進退(自分の気持ちの持ち方)が難しいな。