日曜日

ふとした休み時間に、今のSST を見ていて、「ほんのわずか視点をずらせれば、2001年の段階でもっとも綺麗な現象論として今の版を提案できてたのになぁ」と思う。もっとも美しい現象論は、まず、(i) クラウジウスの拡張を自然に仮定し、(ii) T, J の割り当てをまじめに考えること、によって自然に得られるのだった。(i) は、当時、ハミルトン系の Sasa-Komatsu があったので、クラウジウスの拡張を何か仮定しろ、、といわれるとほぼ一意だっただろう。(ミクロな立場から「それ」が正解だったわけだし。)(ii) は、J の固定の仕方については正解だったのに、J を固定することの困難についての考察が甘かった。(何度か話題にはでていた。)また、温度概念については、迷走していたといわざるを得ない。(これも何度も話題にでていた。)由緒正しい温度は平衡でしか定義できないのだから、現象論としては熱浴の温度を使う以外に許されないはずだった。

自然に単純に美しく...を徹底していたつもりだったけど、正解がわかってしまうと、その徹底がまだ足らなかったことになる。「絶対に何かある」という信念も足らなかったのかもしれない。そのあたりのことを思い出すと、少し悔しい。しかし、僕らの限界でもあったのだろう。もちろん、悔しさがほんの僅かしかないのは、自分たちの手で正解に到達したからに他ならない。これが他人の手になるなら、絶望してしまうかもしれない。

あるかどうかわからない新しい普遍的体系を懸命に想像し、膨大な時間をかけて模索するという無茶なことをする機会は人生で一度きりだろうから、その機会に恵まれただけでもよかった、、、と思えるほど、人間はできていない。実際、昨年1年間、SST は完全休養していたが、半端に終わっているのは嫌だった。等々、書き始めたら、止まらなくなりそうなので、また、いつか....。回想モードの時期でもないし。地道な仕事にもどろう。