日曜日

Harada-Sasa regular paper: 細かいところだけに焦点をあてた手入れをおえて、原田さんにおくる。全体的に気になる箇所もなきにしもあらずだが、タイミング的にもうふんぎりをつけて投稿したほうがいい気がする。

Otsuki-Sasa: 段落構成を固定すべく書き直しをしつづける。自然と、パリであった人たちを読者として想定してしまう。非常に楽しい作業である。ひといきついたところで、大槻君におくる。

講義準備:講義準備への重みのおきかたは、研究者にとって大変難しい。理想的なことを想定して、それを確実に実現しようとするなら、研究者としての活動はできなくなる。これは自明。一方、講義準備の手をぬくと、ろくな講義ができない。これも自明。バランスといってしまえばひとことなんだが、どれもそこそこにする、というのは僕にはできない。結局、僕が到達した考えは、「講義も研究発表も研究そのものも(研究外仕事も)、全て、明示的に力の入れ方を意識すること。そして、力のいれかたそのものは柔軟にかえれるようにすること。そのかえる部分をも意識すること。」だった。明日の講義は、前日の2−3時間程度の準備でなんとかする、と決めていた。もちろん、歩きながらときどき構成を考えていたが、実際に集中したのは、今日の3時間だけである。5月のアインシュタイン特集の講義準備は合計で30時間くらいはかかっているから、その10分の1である。そうした理由には色々あるのだが、ともかく、その判断を明示的にすることで、自分として納得できる時間の使い方になっていると思う。(その判断を明示的にしないと、妙にいらだったり、不自然にあせったりしてしまう。そういう時期もあった。)

これは、講義準備だけでなく、複数ある研究課題をこなすときや、研究発表(論文や講演)のときも同じである。若いとき、研究を優先したいばかりに、研究発表への時間配分など考えもしなかった。計画的にこなすことが嫌いだったから、そういうのを考えるのもいやだった。論文書かないと大学院をでれないというやばい事態になってから、やっと論文をかきはじめ、講演準備など当日になってからやっていた。今の僕なら、当時の僕をしかりつけだろうな。計画をたててそれをこなすことと、力の配分を明示的に意識することは、(表面的には似ている面もあるが)、全く違うことだ。(たとえば、論文にかける時間をゼロだと意識するとき、強烈な緊張感が生じる。この緊張感は、なりゆきで論文を書かないときや、計画をたててこなすというのりのときにも生じない。)