土曜日

先日、続けて学部生と話をする機会があった。研究したいが、どういう分野がいいのか、という話もあったかな。ちょっと舌足らずだったのを今思い出したのでここに書いておこう。(分野の流行とか、科学的な成功とか、社会的な成功とか、気にする人は気になるだろうけど、それを横においての話。)

まず、どんな研究でも「方法」を選ばないといけない。例えば、物理学でも、実験するのかどうか。理論の場合でも、数学をよく使うのか、計算機をよく使うのか。これは、端的にいって、能力で決まる。できないことはできない。興味とかあまり関係ない。僕の場合、実験は全くできなかったし、数学は簡単なことができる程度で、計算機は触ったことすらなかった。(触ってみて、簡単なことでも大変だという予想どおりのことが分かった。実験と似ているが、実験と違って、爆発したりしないからいい。課題演習で爆発してしまい、あわや大惨事になりかけた。計算機でミスっても基研の計算機システムをダウンさせるくらいで済んだ。)多才な人は選択枝が多くて困るかもしれないが、そういう贅沢な悩みのときは、一般論としては、実験を選んでおけばいいんじゃないかな。自然科学を研究したくてできるんだったら実験の方がいい。ただ、やっているときの自分の楽しさは違うと思うし、スタイルも違ってくるので、自分の気持ちよさは考えた方がいいかもしれない。僕の場合は、研究方法としては、実験ではなく、数学と計算機は簡単なところで済ます「理論」しか選択枝がなかった。つまり、実験物理、数理物理、計算物理などの方法で名前がついている分野は僕の場合最初からありえなかった。

次に、研究の「対象」を選ぶのだが、これは嗜好だと思う。物理学でも、「究極物質」「多様な物性」「宇宙の姿」.... などキーワード的な何かで惹かれるものがあればそういう安直な気分で選んでいいように思う。何を面白く感じるなんて人それぞれだし、その部分は能力とは別だし。僕は、「自然現象の背後にある普遍法則の探求」その中でも特に「秩序の起源解明」に関わる研究をしたい。できるだけ身近な現象で、できるだけ簡単な数学で、そこにつながるのが理想だが、なかなか思うような研究はできない。でもその最後の「できない」はどの研究分野もそうなので、できたらいいな、と思うことと自分が日々やっている営みがつながっていると思えるかどうかが僕には大事かもしれない。もちろん、研究しているときは、遠い目標のことは忘れていて目前のターゲットに集中しているのだが、数年単位での研究テーマの変遷を見ると自分の嗜好は決定的に効いている。

その研究「テーマ」の選択だが、これは圧倒的多くの「やりたいけどできないこと」があって、できるぎりぎりのところを目指すことになる。もちろん、できるできないの判断はむつかしい。例えば、「秩序の起源」の例として、「言語や認知が自然現象の結果としていかに生じてきたか」という問題を物理学として明らかにしたい、と思う人は多い。僕も思った。チョムスキーを勉強したり、計算論を勉強したり、認知の本を勉強したり、それなりの時間は使ったが、研究には至らなかったし、残りの人生の時間を考えるとおそらくもう一度勉強しなおすことはないだろう、と今は思っている。(そう思ってひっくり変えることがあるのだが。。)こういうのは、僕にとって「やりたいけどできないこと」の分かりやすい例である。方法のところで書いた能力とはまた別の問題だと思う。

そういう研究テーマがたくさんある。難しい問題こそに挑戦したいのが人間のひとつの性だが、挑戦だけでは意味がなく、結果がなければ研究としては意味がない。そこは「賭け」になる。どれくらいの難しい問題テーマにどのようにつきあうか。他方で、ある程度研究生活をすると、研究テーマがないということはない。科学として意味があって解決可能な問題などいくらでも提示できる。そういう研究テーマに取り組むと「研究動機を達成する」ことはない。(そのような場合、たくさんの論文を書くことで満足する、社会的な成功で満足する、、とか、ゴールを変えることで進む人もいるかなぁ。)だから、自分にとってもっとも楽しいのは、自分ができる限界をぎりぎり超えることである。自分の研究テーマ設定は、そういうことが可能になるようにする(ように考える)。

ただ、経験も知識もない院生のときにそんなことを考える必要はないと思う。そういうことを理解しつつ、境界条件のもとで自分の判断で今の自分の限界に挑めばよいと思う。