土曜日

研究会終了。後は、移動というめんどくさて大変なのが残っているだけ。

実はどんな研究会なのかあまりよく理解していなかった。数学と数値解析の講演が3/4で、その多くはWKB 解析っぽい話だった。自分の精度が低い分野だと、その分野の講演は縮退して見えるので、20年前と知見と違いが見えないのも多く、中々辛かった。しかも講演時間が短いのが朝から夕方まであるので、消耗感もあった。そうなってしまうと、自分が高精度で理解できる分野の講演と休憩時間の話だけでしか得るものがなく、何のために来ているのか分からなくなる。気分の高揚がないと、精神的に籠ってしまう。せめて、講演数を半分にして、(橋渡しできる人たちの)ガイダンス的な議論時間もあれば随分と違ったのだが..ま、難しい。柏のときは講演時間が多い分だけましだったか、せっかく時間が増えても苦痛度が増えるだけの講演もあるしなぁ。質疑応答できちんとできる人がいれば、30分講演+20分議論で色々な確認をとれば、多少、分野が違っても有意義なことも多いかもしれないが、それにしても他分野から何を学びたいのかの動機が共有できていないと成立しないなぁ。

そういう意味で、全体的には苦しい会議だったが、でりだ先生、ほるへ、くりすちゃん、ろぶ、きろーね、せるじお、くりすとふ、という馴染みの人たちがいたので疎外感があるわけではない。特に、今回はでりだ先生と話をする機会が多かったのが嬉しかった。学問に対しても他人に対しても徹底的に謙虚な様はすごい。(1週間通じての最大のハイライトは、デリダ先生に相互情報量の意義を伝えたときだったかもしれない。)くりちゃんやほるへのビジョンはいつも刺激を与えてくれるし、ろぶやきろーねの抜群のスマートさに感嘆するし、せるじおの何というか能天気な勢いもひとつの姿だと思う。(広い意味の)マクロ記述の基礎、物理と大偏差理論、軌道の統計力学など、現在の主たる研究課題をもっと力強くすすめたいと思った。どれもよい感じではあるが、あと一歩いる。(くりすちゃんやクリストフは僕の論文をよく読んでくれていて、説明しがいがないのだけど。)

ただ、新しく会う人と話をして刺激を受けるというわけではなかったかな。大偏差の物理関係では、フレディ―とはラトガースで会ったし、ふごは京都であったし。あ、論文では名前を知っていたらふぁえる=しぇとりーやかぶりえるが新しい知人か。[らふぁえる=しぇとりーは2007年にパリで講演を一度聞いている。講演が余りにも崩壊していたし、自分の講演準備もあったので講演後に話をしなかった。聞けば、そのときまだ修士の学生で最初の国際会議発表だったとか。今回の講演も凄かったけど..。]それに、まーてぃん(=えばんす)と話したのは初めてかもしれない。(USの)まーくとは2回目だが、今回の方がよく話して、彼のタレントを知った。まることも2回目だが今回の方がよく話した。えまるえるは会議終了後に知った。(話をするといかにもパリっぽい優秀な人だったが、発表の内容は記憶に残っていない。)バークレーやENSで学位とりたての若手たちと話をした。彼らも優秀だが、(問題が小さいので)研究成果のインパクトは弱く、こちらが興奮するというようなことはなかった。これはタイミングや運に依存するので、このあとどこかで会うことがあればいいけれど。。

この2年間はバタバタしていたので、ヨーロッパにきたのは2013年の3月以来だったので、少し間があいた。昨年度も色々と招待をいただいたが、無理だったのでほぼ全部お断りした。
僕が海外研究者が主催する国際会議で招待講演をするようになったのは(大昔の1993年を除けば)2007年からである。[20世紀は1995年以降も確か2回くらい招待していただいたが、断った。一人は知人からでパタン形成だったがもう興味を失っていた。もう一つは知らない人からの特異摂動の会議だったがそのときの僕には動機がなかった。21世紀は2007年まで招待はない。]

2007年会議に招待されたのはおそらく二つ理由がある。2005年の日仏会議にフランス側(レティシアさん)の指名で参加することになった。会議テーマのガラスとか紛体とかは何一つ関わっていなかったにも関わらず。そこにはパリ統計力学のそうそうたるメンバーがいて、彼らの一部には顔を知ってもらえたこと。(僕の様子は口伝えで他の人にも伝わっていた。)もう一つは、何というか、自分の物理を続けるには、外にいかざるを得なくなって、2007年の春に10日間のパリのラボめぐりの企画をたてたのだった。それは結局出発当日のインフルエンザでキャンセルになったが、それならぜひ会議に...となって、秋の会議に参加した。

2007年10月の講演に向かう朝、「これで最後の招待講演かもな」と思いながら、会場に向かった風景は今もよく覚えている。そこから招待講演がぽつり、ぽつりとくるようになって、知り合いが増え、さらに招待されることが多くなった。大変ありがたいことだし、いけば、いかないと得られないことをたくさん得るので貴重な機会なのは間違いない。それでも、僕は基本的には外にいくは嫌いだし、社交も好きではない。旅行をそつなくこなすのは困難を極めるし、英会話は論外である。自分の研究時間を少なくして、でかける意義があるのか、というと中々難しいものがある。この1週間、普通に研究してれば、何かすすんだかもしれないし、溜まりに溜まっている各種原稿を何とかしないといけないのもある。それになんといっても普段しないことをする肉体的精神的疲労が激しい。どこかの段階でモードを変えて、籠りモードに戻った方がよいかもしれない。

研究会に行きたいのでなく、研究をしたい

のであって、本末転倒になってくれば、強制的に流れを断ち切ることも必要かもしれない。疲れていたのかそういうことも思った。(ここまでリオン空港で書いた。)

でも、あれから、たった8年なんだよな。もう少しだけでこの流れにのってみよう、というのが関空に降りたときの判断だった。僕はいつも外から作られた流れにのることで、結果としてそれが大きな方向転換をうんでプラスになってきたしなぁ。今年度は、後、決まっている分だけで、インド、韓国、バークレーがある。ストックホルムとインド(2回目)は確定した返事を送っていないが、ストックホルムはそろそろ決心しないといけないのかもしれない。